ジャルジャルさんの「野次ワクチン」のネタを見て、ふと「悪口ワクチン」たるものを思いついた。
自分は、人からの悪口、批判に弱くて、誰かから悪く言われないためだけに30年生きてきたと言っても過言ではない。「いい人に思われたい」というのも、もちろんあるが、それ以上に「非難されるのが怖い」という感情が、ずっと自分を支配してきたように感じる。
それが、自分の中の「ネバネバベキベキ思考」にも繋がり、自分の場合は特に「誠実な人間でなければならない」という禁忌がとても強く、そればかりに縛られて生きてきた。
ネバネバベキベキ思考と禁忌に関する過去のブログはこちら。
もちろん、悪口で人を傷つけることはいけないことで、非難されるべきは、悪口を言われた側でなく、無意味に人を傷つける人たちなのだが、でもいくら自分が「悪口の存在しない世界で生きたい」と思っても、そういう人たちの言動を変えることはできない、ということは、30年も生きていれば流石に理解できる。
例えるのなら、草食動物にとって肉食動物は悪だが、いくら肉食動物に「私たちを傷つけないでください」と懇願しても、彼らがその願いを受け入れることはない。肉食動物は肉を食らわねば生きていけないのだ。草食動物にできることは、ガゼルみたいに足を速くしたり、サイみたいに体をデカくすることだけなのだ。
誰も傷つかないユートピアの実現を、心のどこかで願っていたけど、この世の成り立ちから考えても、そういうユートピアはどうやら存在しないようだ。ユートピアを目指すことは大切なことだと思うが、それが叶わなかったとしても「まあ、しゃあないなぁ」と諦めて、それでも生き続けるしかないのだと思う。
自分のように、悪口や批判を「怖れすぎる」人間にとって問題になるのは、それを怖がりすぎて、人との付き合いを避けるようになってしまうということである。物事の悪い側面だけを見て、「何か非難されるのが怖いから、人と会わない」状態になってしまうと、何のために生きているのかわからない。
しかし、30年も生きていると、悪口やディスにもパターンというか限界があるといいうか、「へぇ〜そんなパターンの悪口あったんだ!」と驚くこともなくなる。逆の言い方をすれば、「悪口の対策」が事前にできれば、恐怖心を和らげて、人付き合いを楽しむことも、また可能になると思う。
悪口の基本は「人の恥の感情に付け込む」
冷静に考えて、人を傷つける悪口ってどんなものなのかな?とも思う。
悪口の基本は「①その人が恥じていることを、露わにして批判する」ということだと思う。また本人が無自覚な場合は「②その人の存在や行為が恥ずべきものだと、気づかせる」というのもあると思う。
パターンを検証してみよう。自分が言われて傷つくことを中心に考えてみる。
- 肉体的、あるいは性的に自信のないことを露わにされる。
- その人の社会的ステータスで劣っている部分を露わにされる。
- 過去の失敗や恥ずかしくて忘れてしまいたい体験を露わにされる。
- 自分でなく、身内の隠したい出来事を露わにする。自分自身でなく、自分の大切な人や物を悪く言われる。
例えば、「笑顔が気持ちわるい」と言う悪口の場合を考える。冷静に考えて、「笑顔が気持ちわるい人間」なんて存在しないと思うが、よくある悪口の代表に挙げられると思う。
ネットのニュースで、これを言われて以来、人前で笑うのが怖くなって、家に籠るようになってしまったという人を見た。悪口を言った本人は大して深く考えてなかったのだとは思うが、たった一言でその人の人生を潰してしまう場合もある。やっぱり、悪口は怖いし、人の人生を潰してしまうというのは流石に洒落になっていない。
この場合は、「それまでは普通に人前で笑っていた」ことが想定されるので、まず②の「無自覚であることを恥ずべきことだと気付かせる」というものに分類されるだろう。そして、一度気づいてしまうと、それは①の「本人が恥じていること」に移行する。
内容としては、「1の肉体的、性的に自身のないこと」に分類されるだろう。体や見た目のことを悪く言われると、すごく傷つくというのは自分だけでないと思う。それは、見た目のことが「変えられない」問題であるということに加えて、見た目の問題が「性」というものに直結するからだと思う。
人間だけでなく、動物というのは半分くらいは異性と出会い、そして子孫を残すために、遺伝子によってプログラムされている。シャケとかカマキリとか、生殖直後に死んでしまうようにプログラムされている動物というのは結構存在する。それだけ、みんな命懸けで異性と出会い、命懸けであるということは、それだけ「性」というのもを大切に「重く」捉えているということでもある。
恥という感情は自身による言語化に弱い
この記事の目的は、仮に悪口を言われたとしても、それがトラウマ化せず、人付き合いを避ける方向に人生が進まないようにすることにある。
その上で最も大切なことは「自分で自分の悪口を言えること」だと思う。
自分が人から悪く言われることを怖れて、人付き合いを避けていた頃、自分のコンプレックスは根が深すぎて、自分自身で自分のコンプレックスを言うことすらできなかった。自分のコンプレックスに触れるのが怖すぎて、自分自身の自分しか見ない日記にすら、自分のコンプレックスを書き記すことができなかった。
後に、本当の勇気は「弱さ」を認めること (ブレネー・ブラウン (著), 門脇陽子 (翻訳))と言う名作に出会い「恥という感情は言語化に弱い」ということを学んだ。これは自分にとっては青天の霹靂だった。自分はまさにその逆の「恥について口を閉ざす」ということを30年近く続けていたからだ。以下に、大切な部分を引用しておく。
恥は、恥ずかしくて口に出せない、という気持ちをエネルギー源とする。だがもし恥についてよく知り、名前をつけ、語りかけるのなら、根っこを絶ったようなものだ。恥は言葉に包まれるのが大嫌いなのである。グレムリンが日光にさらされると死ぬように、恥も言葉にして表現されるとみるみる枯れていく。
本当の勇気は「弱さ」を認めること
自分自身、自分のコンプレックスや、自分が言われて最も嫌な悪口を言語化するのは実際に非常に勇気のいる作業だった。多分、みんながみんなできることではないとは思うが、この作業を終えたあと、途端に楽になれたのもまた事実だ。
人からの非難は怖いものだが、怖れすぎて人付き合いを避ける状態にならないために、「自分で自分の恥の部分を言語化できる」ことは非常に重要なことだ。
いきなり、自分の恥について他者に伝えるのは、難易度が非常に高い。自分がお勧めする順としては、
- 自分しか見ない日記に自分の恥を文章化する
- 日記に言語化したものを、口に出して言語化する
- カウンセラーさんなど、秘密を守ってもらえる人に、文章また口で直接恥について聞いてもらう
になると思う。いきなり、人に聞いてもらうのは敷居が高すぎるので、まずは自分自身に向けて言語化しよう。
認知行動療法で紹介されている悪口ワクチン
そうやって、恥について言語化する作業は、確実に悪口に対する免疫になる。そして、自分自身に対し、自分の恥じている部分をディスるという方法は、認知行動療法の方法としても紹介されているのだ(〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法)。これは「悪口ワクチン」といえるだろう。
この方法では、まず「迫害者」として自分に対して、「これでもか!」というほど、辛辣なことを言う人間を想定する(社会に出てからここまで辛辣な人に出会うことは稀だと思う)。そして、その「悪口」に対して、絶対にしっかりと反論する。
この、実際に自分で思わなくても、反論するというのがポイントだ。仮に相手の言うことが真実に思われても、それが自分を傷つける悪口なら、しっかりと反論しなければならない。さもなければ、学習性無力感(Learned helplessness)を誘発しかねず、そして学習性無力感はうつ病の原因にもなる。「悪口」を100%受け入れず、どんな些細なことでもいいから反論することが大切だ、ということはこの本の中でも紹介されている(ちょっとだけ・こっそり・素早く「言い返す」技術 ゆうきゆう)。
以下に本の中で紹介されている、「悪口ワクチン」の例を引用させていただく。
1 迫害者「お前は恋人として失格だ。ときどき、ちゃんと勃起もしないじゃないか!まったく男らしくない、情けないやろうだ」
あなた「確かに、セックスについてはどうも下手だし、神経質すぎるみたいだ。でも、だからといって、男として価値がないってことじゃない。勃起について神経質になるのは男性だけだから、これは男らしい体験ってことじゃないか。それにセックスだけが男の価値を決めるのではない」
2 迫害者「お前は他の友人より、仕事もしてないし、成功もしてないな。お前はダメなやつだ」
あなた「気力がなくて、あまり働けなかったのは事実かな。それに才能にも恵まれてないなー。だからと言って、ダメなやつということにはならないよ」
3 迫害者「何にも取り柄がない奴だな」
あなた「たしかに、なんの世界チャンピオンでもないよね。世界第二の何かをもっているわけでもないし、実際、何もかも平均的だ。だからといって、価値がない人間なのか?」
4 迫害者「お前はどうも人気がないな。友達も少ないし、誰もお前のこと気にかけていないようだ。家庭も恋人もないし。お前は失敗者だ。ダメな奴だ。価値のない人間だ」
あなた「今、恋人がいないのは本当だ。友達も少ない。人気者になるのためには何人の友人が必要なんだ?4人かな?7人?あまり人気がないのは、多分あんまり社交的でないからだろう。この点はもっと努力しなければ。でもだからといって、なぜ失敗者なんだ?価値がないんだ?」
〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法 デビッド・D.バーンズ (著)
自分から見ても、流石にこれは辛辣すぎるんじゃないかと思う。特に、1とか、男性に対して、もろに男性性を否定するというのは、本当に傷つける発言だと思うのだ。これを見て、映画「ファイトクラブ」で「EDで妻が別の男性の元に逃げた、残された男性たちの自助グループ」のシーンを思い出した。
自分に対する最大限の悪口ってなんなんだろうなとも思う。最も自分が傷つく言葉。考えても意外とパッとは出てこなかったりする。それを思うと悪口にもある程度の知恵が必要なのだと思う。
ワクチンはあくまでワクチンで、これが万能薬というわけではない。インフルやコロナのワクチンみたいに、ワクチンを売ったからといって100%ウイルスに罹らなくなるわけではないのだ。自分自身、ワクチン以上に大切なのは、カウンセリングなど、実際に悪口によって傷ついた人を癒すという「治療」だと思うし、自分自身カウンセリングがなければ、うつからも過去のトラウマからも立ち直れなかったと思う。
しかし、されどワクチン。ワクチンを打つことで「自殺」などの最悪な事態を防止できる確率は上がるのかもしれない。
悪口を言って、人を傷つけるのは簡単だけど、悪口で傷ついた人を癒すのは想像以上に難しく、労力も必要だ。いじめで引きこもりになって、再起不能のなってしまう人はあとをたたない。
学校教育では優秀な人材を育てるという側面ばかりに重きを置かれているが、でも、傷ついた人間を癒すシステムや、人が傷つきにくい環境を構築するということの方が先決なのではないかと思うのだ。
人間の命を無駄遣いせず、一人一人を大切に育てていく環境があってこそ、回り回って「強い国」というのが実現されるということを、アメリカという異国で学びつつある。