先日、久しぶりに研究室での飲み会があった。コロナ禍以前は、大体月に一度ほど、近くのRockbottomにみんなで出かけていた。今回は約1年半ぶりの飲み会である。
「アメリカの飲み会」は「日本の飲み会」と大きく異なる部分がある。
一つは、いつ来ても、いつ帰ってもいいとうことだ。日本の飲み会の場合、途中参加には比較的寛容だが、途中退席には厳しいという側面がある。それは、割り勘文化で、お会計を最後にまとめてするということとも関係しているだろうし、何より、上の顔を立てるとか、そういう「礼儀の文化」にも大きく起因している。
また、料理やお酒に関しても、アメリカの場合は原則的に「シェア」という概念が薄い。基本的に自分が頼みたいものだけ頼んで、会計も個別に行う。人と食べたいものが違ったりすることが多い自分にとって、この文化はありがたい。
もっと日本にもこの文化が浸透すればいいのにと思う。そうすれば、先輩から「あいつの選ぶ料理はセンスがない」とか陰口を叩かれずに済む。
さて、日本にいた時から飲み会が苦手で、できることならとっとと帰りたかった自分なのだが、早く帰ることが圧倒的に許されている、このアメリカ式の環境においても、なぜか最後の最後まで残っていることが多い。
前の研究室と違って、ここの研究室では自分の存在が許容されている。でもそれは特段好かれているとか、そういうことでなくて、ただ居ることが許されているという感じだ。「好きといっちゃ好き、嫌いではない」これほどありがたいことはない。
ただ、英語が渡米何年経っても苦手で、相変わらず、欧米人同士の会話は何を言っているのかわからない。そもそも、会話のネタになっている、ドラマとか映画とかそういうものを全くと言っていいほど知らない。
でも、つまらなそうにスマホを眺めるわけにもいかず(そんなんだったら流石に帰ると思う)、会話している方をしっかり見て、何を言っているのか、理解しようとする。それでも何を言っているのか、全くわからないのだが、その作業を、トイレ休憩を挟みながら、飲み会終了までの4~5時間も続けているのだ。
正直、かなりしんどい。だから我ながら「早く帰れよ、アジアの陰キャが」と思うのだが、蛇に睨まれた蛙のように、動くことができず、煌びやかな、欧米人の楽しげな会話の中、黙々と愛想笑いだけを続けて、最後の最後まで居座る。
「普段職場では全く話さないのに、というかここでも話していないのに、なぜこいつは最後までいるのだろう」そう思われているかもしれない。自分でも正直なぜ途中退席しないのか、わからないのだ。
もしかすると、英語が急に理解できるようになる、という奇跡を待っているのかもしれないし、夏場の薄着の欧米美女の側でラッキースケベを期待しているのかもしれないし、「今日はここで帰るよ」の英語が思いつかずに、途中退席を切り出せないだけかもしれない。これだけは、自分でもわからないのである。
でも、以前の研究室では、義務である1次会だけ参加して、2次会以降は参加していなかった。それを思うと、多少は自分の自由意志のもと、最後の最後まで、何かが起こることを期待して、居座っているのかもしれない。周りの人も自分が黙って居座っていても、嫌な顔はしないでいてくれるから。