うつ病の症状の一つに「新しいこと、やったことがないことを始めるのが困難になる」というものがある。個人差はもちろんあると思うが、自分のうつ病はこの症状が顕著だった。
「新しいことができない」というのは自分にとって致命傷に近かった。というのも自分の職業は研究者であり、研究者というのは常に何かしら新しいことに着手することが求められる職業だからだ。
うつ病が最も酷かったときの、あの新しいことに着手する際の、変な恐怖心というか、あまりの壁の大きさに圧倒されてしまう感覚というのは今でも覚えている。とりあえず、やったことのない実験をしようと思って、机で実験計画を立てるのだが、あまりの進捗のなさに、「やべ、時間がない」とどんどん焦っていき、「しょうがない、やったことのある実験方法で頑張ろう」と、結局新しい手法にはチャレンジせず、すでに知っている実験手法だけで、目の前の課題を片付けてしまうのだ。
この「やばい、新しいことしようとしているのに、全然進まない!時間ない!うわーどうしよう。簡単なはずなのにできない自分やばい!」みたいに、何かに迫られるように焦ってしまう感覚というのが、うつ病が酷かった自分が新しいことを目の前にした時に感じる感覚だった。そして、その異様な焦燥感に打ち勝つことができず、結局新しいことを学ぶことを諦めてしまう。
アメリカに来てから、うつ病寛解に取り組む過程で、この「焦燥感」というのがうつ病の典型的な症状であることを知った。それからは少し楽になった気がする。この新しいことを目の前にした時の異様な焦燥感を感じても「あ〜うつ病の症状だ。ちょっと脳の調子悪いな」みたいに、自分の状況を客観的に判断することができるようになった。日本にいた頃は、自分がなぜ焦ってしまうのかもわからず、余計につらかった。
うつ病の時に感じる焦燥感は、うつ病じゃない人が感じるものとは少し毛色が異なると思う。実際、ことが差し迫って焦ってしまうことというのは、普通に日常的にあり得ることなのだが、うつ病時はこの焦燥感にターボがかかっている感じで、「焦る必要もないこと」に対して異様な焦燥感を感じてしまう。
自分の場合を振り返っても、決して焦るような状況ではなかった。時間はたくさんあって、何日かかってもいいから、トライアンドエラーを繰り返しながら、少しずつ学んでいけばいいような事柄ばかりだった。
自分はうつ病の寛解に取り組んでいる間も、なんだかんだで、必要に迫られて、新しいことに着手せざるを得なかった。日本からアメリカの研究室に移り、そこで全く新しいことを学ばずに済むはずがない。それでも、他のラボメンバーに比べると、古臭い実験手法ばかり使っているが、それでも何か新しいことを学ぶ際は、焦燥感で暴走している扁桃体を、「これはうつ病の症状で、実際は焦る必要のないことだ。腰を据えてじっくりやれ」と理性で抑え込んで、なんとか新しいことに取り組んでいた。
ブログを始めた2年くらい前からだろうか。新しいことを始めるのが、以前ほどは苦ではなくなった。それでも、楽というわけではなかったが、ホームページ作成とかブログとかも含めて、今まで全くやったことのないことを、そして、やりたかったけど、うつ病になってから全くできなくなってしまったことを、腰を据えてできるようになってきた。本当に良かったと思う。
最近もうつ病が少しずつ良くなっていて、ついに「暇だ」という感覚を抱くようになってきた。うつ病時は急性的な焦燥感だけでなく、慢性的な疲労も合間って、「暇だ」という感覚を抱きづらい。時間が余るととにかく「休みたい」という感覚が真っ先にくる。
「やることがない、暇だ」という感覚は、疲労が溜まっている時には感じづらい。暇を感じるには「十分休んだ」という感覚が必要なのだとわかった。「休むことすらも終わってしまって、まじでやることがない」という感覚が暇ということなんだと思う。
そうすると、自然に「なんかしてみるか〜」と思えてくるのだ。今までは「新しいことを頑張って試なきいけない」という感覚だったのが、もっと気軽に「とりあえずやってみよう」と思えるようになってきた。意識して能動的に新しいことをしていたのが、そこまで意識せず、エネルギーが体を流れるまま受動的に新しいことができる。
うつ病じゃなかったとしても、何か新しいことを始めるのは非常に難しいものなのだ。そのことも自分は忘れていた。「簡単なことができない自分」に焦っていたが、そうではなく、うつ病の有無に関わらず、「新しいことという難しいことにチャレンジしている自分」だったのだ。
ただ振り返っても、当時の自分に焦るなと言ってもなかなか難しかっただろうな。今の自分はある種、アガった状態で実際に余裕があるのだ。
最後に過去の自分に向けて。新しいことは本当に難しい。けど時間をかけると意外とできたりもする。焦燥感ですぐに投げ出さず、諦めずに毎日少しずつ、時間をかけていたら、意外と新しいこともできるよ。できるまでやることという意識が大切かも。恐怖心と焦燥感に負けそうになるけど、ちょっとずつちょっとずつ。理性で扁桃体に打ち勝て。