自分の希死念慮を徹底的に文章化してみる

昨日、ZOOMでカウンセリングを受けました。3週間間隔で受けていますが、自分にとってはそれくらいがちょうど良いですね。今回は自分がここ数年感じ続けている明け方の希死念慮について、改めて深く話し合ってみました。

自分のうつ病について、寛解したのかしてないのか、自分自身よく分からないのですが、明け方に感じる希死念慮に関しては未だに続いていて、これが本当に苦しい。よく5年間も苦痛な朝を迎えているなと我ながら感心します。一方で希死念慮に慣れ切ってしまっている自分が可哀想にも感じられるというか。希死念慮を感じる頻度は確かに減ってきたと思います。しかし、希死念慮の強度はあまり変わっていない。でも、そろそろこの希死念慮ともおさらばしたい。5年間連れ添ってきた希死念慮ちゃんに少し愛着も湧いてきてはいるけれど、でもできるのならおさらばしたほうがいいと思う。そこで今日は自分の希死念慮を可能な限り文章化してみようと思う。希死念慮は非常に感覚的なことなので、文章化するのが難しいが、そこにとことん向かい合うことが、最善の解決策なような気がする。

希死念慮を感じ始めるようになったきっかけ(うつ病の発症)

うつ病の発症の仕方は人それぞれだと思うが、自分には明確に「この日からうつ病が始まった」という日がある。もちろんその日以前も状態は最悪だった。人生最高な状態から急にうつ病になることは、脳の仕組みを考えても起こりにくいと考えている。自分の場合は、うつ病発症まで、研究室でのハードワークを4年間続けていた(その内容はまた別で書こうと思う)。その中で、数年かけて徐々に脳機能が衰えて行っていたのを覚えている。しかし、それだけではうつ病にはならなかった。自分の場合はそれに加えてプライベートの恋愛でも問題を抱えていた(これもいつかまた別で書くかもしれない)。この「ハードワークによる脳機能の低下」と「プライベートでの恋愛の苦悩」が合わさって、「職場にも自分の家にも逃げ場がない、安息の地がない」という状況になり、ある朝からひどい希死念慮が始まったのである。これが自分のうつ病発症の日だと思っている。それまでは自殺なんて、全く考えられなかったし、自分の中で明確にタブーとしていたのに、まさか自分が自殺について考えるとは思いもしなかった。

自分の希死念慮。右手を拳銃に見立てて、自分の心臓を何発もその拳銃で撃ち抜いていた。

希死念慮を最初に抱いたのはゴールデンウィークの休日の朝だった。朝起きる気にならなかったし、「もう死んじゃいたいなあ」と人生で初めて感じた。それまでもつらいことはたくさんあったけど、「負けるもんか」と思って頑張り続けていた。その強かった心が、その朝ぽっきり折れてしまったのである。強かった心というのは語弊があるかもしれない。頑固で強迫的で柔軟性のない心だった。

そして自分の右手(右利き)を拳銃に見立てて、寝惚け眼で、意識があるかないかの状態で、何発も自分の心臓を撃ち抜いていた。自分の心臓を撃ち抜いている間、少し心地よかったのを覚えている。それをしている間だけは生きていられるような感じというか。そんなことを30分から1時間続けてようやく布団から出られるという感じだった。その行為は大学院を卒業するまでの約2年間、ほぼ毎日続けていた。

自分の希死念慮のイメージ。実際に右手を拳銃に見立てて、何度も撃ち抜いていた(画像は左手だけど。。。)

拳銃で心臓を撃ち続けて、胸に完全に穴が空いてしまった

大学院を卒業と同時に実家に戻ると、つらい職場からも恋愛関係からも逃れることができて、右手で心臓を撃ち抜くという行為はやめることができた。自然にやめたというよりは、少し意識的にやめたと思う。さすがにどう考えても不健康な行為であったと自分でも感じていたから。しかし、それでもやめることができた。

それでも、2年間右手で心臓を撃ち抜き続けた代償か、明け方、胸元が苦しいというか空虚感というか、とにかく胸元に虚空を感じるという症状は未だに続いている。そしてその胸元の虚空感と同時に希死念慮を感じる。感覚としては、苦しさというのが近い気がするけど、それとも少し感覚が違う。息苦しさではない。胸が圧迫される感じでもない。どちらかというと、心臓が動いていないという不快感である。胸に手を当てても、自分の心臓の鼓動を感じない胸元がえぐられて、自分の心臓がなくなってしまった感じがする。その感覚とともに、「死んでしまったほうが楽だ」と思い感じるのである。

とにかく、起きるのがめんどくさいのである。明け方は「起きたって楽しいこと何一つないし、このまま目覚めたくないな」と感じるのである(実際はそんなことないのだけれど)。何かに対しウキウキして目が覚めるということは、ここ5年一度も感じていない。自宅で朝ごはんを食べることも年に10回もない。いくらお腹が減っていても、限界まで布団に潜っていて、10分程度の準備で職場に向かう。そんな生活がずーっと何年も続いている。

実際に自分の右手を拳銃として動かすことは無くなったけど、想像の拳銃を取り出すことはたまにある。そして時には想像の巨大な針で自分の体を串刺しにしてしまう想像をすることもある。全て明け方の目が覚めだし、意識が戻り始める時の話である。そんな妄想をしながら、30分から1時間くらいしてようやく布団から出ることができる。

希死念慮は自殺願望とはまた違う。自殺願望は具体的に「自殺」することを考え、その行為の計画を考えたりすることであると思う。自分はその意味で自殺願望は抱いたことがない。希死念慮はどちらかというと、「死んでしまいたい、消えてしまいたい」という感覚で、場合によっては「隕石が落ちてこの世ごとなくなってほしい」と感じることもあった。ただ実行に移すことはしないそこまでの気力も体力も残っていない。可能なら神様に全てをデリートして欲しいという感覚である。自分で主体的に死について何かを実行しようとしたりはしない。希死念慮はどちらかというと他力的な願望である。

希死念慮を和らげるための行為

その胸の虚空は不快であり、気づくと自分は大きめのクッションを購入していて、明け方は毎日のようにそれを抱き枕として強く胸元に押し当てていた。そうすると、その空虚な感覚が少し和らぐのである。穴のあいた胸に何か温かいものが埋まる感覚というか。この明け方にクッションを強く抱きしめるという行為は3年くらいやっている。

先日のカウンセリングで言われたことは、瞑想の時に胸元に意識を集中させるということだった。意識的に自分の心臓を動かしてみたり、何かのエネルギーを心臓に流し込むようなイメージで瞑想に取り組むのだ。

ざっとこんなところだろうか。本当に個人の感覚的なことで、希死念慮を抱いている人全てがこんな妄想をしているとはもちろん思ってもいない。あくまで「自分の希死念慮」である。しかし、世界を探せば自分と似たような希死念慮を抱いている人はいるかもしれないし、これが何かの参考になるかもしれない。そして、この苦しい朝を何年も過ごしてきた自分のためにもこれを記録として残しておきたい。そんな思いがこの文章を書くにあたった動機である。

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