前回の続き。
そもそも、なぜ人間というのは、こんなに負けず嫌いで、敗北を受け入れたり、自分の分を見定めたりするのが苦手なのだろう?自分だけでなく、自分の母親とか教授も、敗北を受け入れられたら、もっと楽に生きられるのに、と常々思っていた。
昨今始まった戦争も、とっととどちらかが敗北を認めることができたら、こんなに長続きせず、兵士の命も無駄にせずに済むのだ。でも、敗北には多大な屈辱感が伴い、そして、自分たちにとっての悪行が正義であると認めることになってしまう。それを受け入れることがいかに難しいかは、研究室を離れてからも、教授や先輩と言った見えない敵と戦い続けて、疲弊していた自分だからこそよくわかる。
人間社会で、敗北が死に直結することはほぼないが、人間以外の生物は幸か不幸か、負けることは死を意味する。バッタがカマキリに負ける時、シマウマがライオンに負ける時、アザラシがシャチに負ける時、それはいずれも死を意味し、そしてその生きた血肉を、生きながらにして食いちぎられ、弄ばれ、悶絶しながら死にゆくのである。
幸い、人間がこういうことを経験することは稀になったが、それでも脈々と受け継がれたDNAの中に、古代の、人間がまだ人間になる前の記憶が刻まれていて、だからこそ、敗北というのがこんなにも恐怖を伴って、受け入れ難いものになっているのだろうと思う。敗北を受け入れて、それでも次に進んでいくには、高度な感情的な処理能力が必要なのだ。
自分がアメリカに来てから頻繁に聞くようになった曲がある。食後の散歩タイムに、NIHのビル60の丘の周りを、吉本新喜劇のエンディングテーマを、散歩しながら時折流している。
この歌詞の中に「ユラユラと堕ちてもみたいやん」という部分がある。研究者として、巨悪に立ち向かうべく、一生懸命諦めずに研究していて、でも体力的にも精神的にもこれ以上は頑張れないだろうと、心のどこかで限界と疲弊感を感じていた自分にとって、この敗北を受け入れることをコミカルに肯定しているような歌詞が救いとなっていた。
「これ以上がんばらんくたってええ、負けたらええ、ユラユラと堕ちていったらええがな。それでもきっと楽しいことある」
そう言われているみたいだった。
つづく。