一体何から書き始めればいいのやら…それくらいブログの更新が滞っているし、書きたいことも溜まりすぎていて、もはや全ては覚えていない。
とりあえず、およそ7年間のアメリカポスドク生活を終えて、日本に本帰国したことをお知らせしよう。最後の数ヶ月は就職活動と帰国準備のストレスで、文字通り「忙殺」されていた。本当に「死」が近くに感じられた。何かの瀬戸際だったかのように思う。大袈裟だが、結局7年間のアメリカ生活で銃声は一度も聞かなかったが、でも渡米直前は人生で初めて銃社会に乗り込むということもあり、そういう「生き死に」のリスクも意識した。こんなことを書くと実際に命懸けで国のために働いている方々に申し訳ないが、それでも少し戦士みたいな気分でもあり、無事生きて帰ってこれて、また両親の顔を見られて、本当に良かったなと思う。
アメリカにいる最後の方、アメリカに永住するという選択肢がまだ少し残されていた時、自分は冤罪で捕まり、あるいはいっときの気の迷いで性犯罪とかを犯し、牢獄され、一生家族の顔を見れないのではないか、そのような妄想をよくしていた。そんな姿を想像しては「カッコ悪くたって、仕事が見つからなくて無職で帰って友人からバカにされたって、なんでもいいから日本に帰ろう。まだ彼らにさよならを言っていないんだ。今死んだり監獄されるわけにはいかないんだ。帰れなくなった祖国に帰るんだ。自分はライナーブラウンなんだ」そんなことを繰り返しルミネーションしては、その場にへたり込みそうな自分を奮い立たせて、頑張って生きていた。
2年ほど前に自分は「敗北を受け入れる勇気」という長いブログを8回に渡り書いた。それは日本で研究することがトラウマとなり、アカデミア研究がパニックの引き金となってしまった、そんな自分を受け入れ、アカデミアの世界から降りることを自分自身、納得させるために書いた文章であった。
実際に、半分以上はアカデミアの世界を辞めるつもりであった。企業就職も視野に入れて、ボストンキャリアフォーラムに参加してみたりもした。学生の頃、企業就職する同級生を内心小馬鹿にしていた自分が、恐怖とストレスでどうしようもなくなり、30歳を超えて学生に混じってスーツを着て、企業のブースを回っていた。「すごく情けない気持ちになるのかな?」とも思ったけど、実際はそんなこともなく、スーツを着た自分を受け入れることができ、自分の人生を守るために、人生の方向転換をしようとしている自分が誇らしくもあった。
あれから2年くらいが経つのか。自分でも少し驚いているのだが、結局日本に帰ってきても、アカデミアの研究者を続けている。アメリカにいる内にそういう決断をして、アカデミア就活をして、今に至っている。
大きく、二つ理由がある。一つはアメリカで研究を頑張っているうちに、論文が出てしまったのだ。今すぐPIになれるほどではないけど、もう少し頑張れば、日本は難しいかもしれないけど、世界のどこかではPIになれるんじゃないかという、それくらいの業績。実際、アメリカのボスにも「アメリカでfaculty positionの獲得を目指してみないか?」と勧められた。今まで自分がPIになれるかもしれないなんて考えたこともなかったけど、大好きな、すごいボスにそう言ってもらえて、プレッシャーも大きかったが、少なからず嬉しかっとように思う。
そんなわけで、とてもじゃないけど、周囲の雰囲気的にも「うつなまがPIを目指すか目指さないか」という前提で接せられ、まさか自分が企業就職も検討しているとは、みんな夢にも思っていない、みたいなそういう状況で、自分の意思だけでなく、ちょっと断りづらくてアカデミア研究者を続けるに至ったという側面も否定できない…
もう一つの理由はブログで時折触れてきた「Mちゃん」という女性と、別れてしまったというものである。12年に及ぶ、壮大な苦しい恋愛で、付き合っているとも言い難かったのだが、それでいて何故か結婚を意識する不思議な病的な関係で、それはいつかブログで書くかもしれないし、書かないかもしれない。いずれにせよ、自分はちょっと問題のあるMちゃんと一緒になるなら、これ以上不安定な職種を選んでいる余裕もないなと思い、「海外留学の夢も叶ったし、アカデミアみたいなヤクザな仕事やめて、ここらで身を固めてみるか…」みたいな思いが少なからずあった。
そのMちゃんに突然振られ、身を固める理由もなくなってしまったのだ。急激な予定運命の変更にどうしていいかわからないまま、予定通りボスキャリに参加したのだが、別に特段企業就職したいという思いがあったわけでもなく、一人で生きていく分には借金もなく、ある程度の貯金もあり、高給取りになる必要もなく、企業就職「しなければいけない」理由がなくなってしまった。自分の中でボスキャリに行った後くらいで、企業就職したいわけではなかったことに気がつき、「いつやめてもいいけど、とりあえず次はアカデミアにしよう」という決心が固まったと覚えている。
この二つがアカデミア研究者を続けるに至った大きな理由だ。もちろん、それ以外にも細々とした理由があるが、そこまでは書くつもりない。
では、なぜアメリカに残るのでなく、ヨーロッパなどの別の海外に行くのでもなく、日本に帰国するのか?
その理由は「もう限界だったから」だ。
コロナ禍に突入し、隔離生活が始まってから、自分は頻繁に家族の夢を見るようになった。実際に2年以上日本に帰ることができず、その間弱りゆく祖父母の話などを両親から聞いては、悲しく心細い気持ちになった。
当時、日本に帰るためには、ホテルで2週間ほどの隔離生活を送らなければならなかった。そこからようやく家族に会うことができるため、バケーションとして一か月ほど休みを取らなくてはならなかった。当時、研究にそれほど没頭していたわけではないのだけど、多分ボスに言ったら休ませてくれてはいたけど、それでもそこまでの休みは取りたくなかった。
何よりも、あの状況で一時帰国した場合、家族にコロナ感染させてしまう可能性がものすごく高いと思った。父親は祖父母の面倒を見るためにしょっちゅう実家に帰省しており、自分が実家に帰って、家族の誰かにコロナ感染させてしまった場合、一家を全滅させてしまう可能性があると思っていた。2021年入り、みんながワクチン接種することができ、だいぶ安心できた。でも結局、その年末までに隔離が撤廃されることはなく、帰国できず、さらに祖父が転倒入院をきっかけに車椅子生活になったことを聞き、自分の心はちょっと折れてしまった。
自分が帰国してから祖父は亡くなった。急な話だった。自分が強く主張すれば施設に入った祖父に会えるチャンスもあったのに、それができなかった。情けない。「次、父の実家を訪れる機会があったら、祖父に面会したい」と父に伝えた1週間後くらいに祖父はあの世へ旅立った。会いたい人には会えるうちに会っておくべきなのだ。
でも、葬儀に参列することはできた。アメリカに残っていたら、祖父と孫という関係性上、もしかしたら難しかったかもしれない。祖父は教師だった。お酒好きだけど、ものすごく静かで、でも正しいことに忠実で人に優しく、最後の最後まで理性を失わず、大好きな尊敬していた祖父だった。葬儀の手伝いも色々することができて、一族の一員として役目を果たすことができて、勇気を出して日本に本帰国することができて、本当によかったと思った。
祖父が車椅子生活になったと電話づてに聞いてから、自分は祖父の夢をよく見るようになった。夢の内容はいつも同じで、祖父が案外普通に歩けている、あるいは歩けるようになったという夢だった。意外と大丈夫じゃん、全然歩けてるじゃん、みたいな、そんな夢。祖父が亡くなってからその夢も見なくなった(このブログを書いている間に、祖父が生きている夢を見た笑)。夢というものは不思議である。現実的なんだか非現実的なんだか、現実と繋がっていながら、どこか非現実的である。
アメリカにいた最後の1年くらい、自分は毎朝のように実家で目覚めていた。もちろん夢の中でである。朝起きると自分は実家にいて、母と兄妹と一緒に朝食を食べている、そしてアメリカに戻るためのビザ申請に焦っていて、空港の出国審査がうまくいくかどうかビクビクしている。あるいは、時々は朝目覚めると、両親がアメリカの自分のアパートに来て寝泊まりしていた。夢の中で、実家とアメリカのアパートはどこでもドアで繋がっているようであった。
そして夢から覚め「めんどくさいな…生きる理由がないな…死んだ方が早いな…」みたいな希死念慮と共に寝ぼけ眼でしばらく布団の中に留まり、妄想の中で自分を拳銃で撃ったり、巨大な針で串刺しにしたりして、限界まで布団のなかにいる。ベットから出て、見えないプレッシャーからくる吐き気とともにえずきながら、それでもタバコを吸い、コーヒーを飲む。そして朝ごはんを食べずに、たまに髭剃りだけして、前の研究室の教授や先輩から、色々言われる様子をルミネーション(思考反芻)しながら、車で職場に向かうのであった。
Mちゃんと別れてから、自分の心理的な悩みは以前の職場の教授や先輩のみになった。Mちゃんとの関係が続いていた時は、毎朝のように職場へ向かう車の中で、Mちゃんとの不自由で絶対にうまくいくはずがない結婚生活をルミネーションしていた。Mちゃんと別れた後、車の中での結婚生活のルミネーションは無くなったけど、そこから1年くらいが経って、ルミネーションの内容が教授と先輩になってしまった。Mちゃんのルミネーションもしんどく、つらかったけど、自分はMちゃんのことが好きだったから、振り返るとそのルミネーションは教授や先輩のルミネーションに比べるとマシだった。教授や先輩は純粋に嫌いな、可能なら死んでほしい、忌まわしい存在で、そういう相手とのやり取りが、自分の意図とは関係なく頭に浮かび続けるのは、本当にいやで地獄だった。Mちゃんと別れて楽になった部分もあった反面、Mちゃんが心に居座ってくれてたおかげで和らいでいた孤独感みたいなものもあったのだと気付かされた。
アメリカ生活の最後の1~2年ほどだろうか…週末、ソファーに寝転んだ状態で、よく「誰か助けて~」と独り言を言っていた。今の自分の状況から、誰かに自分を救って欲しかった。でも、それ以上に、肉体的に限界で、単純に誰かに家事をして欲しかった。コインランドリーに洗濯しにいくのが、掃除機をかけるのが、料理をするのが、しんどくてしょうがなかった。土曜の朝から始まる、所属していたクラブ活動も、起きることがほとんどできなくて、大幅に遅刻して参加していた。
最後の数ヶ月、まだ日本での就職が決まっていなかった頃、よく頭の中に「僕も帰ろ、お家へ帰ろ」と日本昔ばなしのエンディングが思い浮かんだ。「最悪無職でもとにかく帰ろう、とりあえず、自分の挑戦は一旦ここで終了させよう、気楽に考えよう」。そんなふうに無理して気楽に考えようとしていた。残念ながら人間というものは意図的に気楽なることはできないようだ。
変な話だが、NIHにしばらくいて「日本に帰るのが怖くなってしまった日本人」というのにしばしば出会った。自分のように日本のアカデミア労働環境に嫌気がさして、というかアメリカの楽園的な職場環境とのギャップで、日本の職場がトラウマ的に怖くなってしまっているような感じだった。自分も含めて。その結果として「アメリカに残る」という選択をとっている人は少なからずいたように感じる。
自分にとっても日本に帰るというのはものすごく怖いことであった。日本のアカデミア業界に帰ると、教授や偉くなった先輩に学会で会うかもしれないし、「あいつはダメだ、無礼者だ」と他の研究者に喧伝されて、敗北させられ、研究者としてのキャリアを終わらせられるかもしれない。アメリカに残れば、教授や先輩の支配力はここまで及ばず、良き仲間と幸せな研究生活を送り続けることができるかもしれない。そういう思いは常に頭の片隅にあった。
一方で、理性の部分で「教授や先輩と会うのが怖いからって、日本に帰らないって変というか、大袈裟すぎやしないか?」とも思っていた。仮に、日本に帰ることで、全てのアカデミアキャリアを失ったとしても、元々そこまで卓越した業績でもないし、別に大丈夫な気もしていた。他の研究者仲間に「アカデミアをやめる」と言ったらガッカリされるかもしれないけど、でも一時の恥だし、それで離れていく仲間は、そこまでの関係性だったということであろう。
「教授や先輩に会う恐怖心」と「親族の死目にも会えず、アメリカの僻地で天涯孤独な生活を送る自分」を天秤にかけた時、自分は恐怖心に打ち勝ち、家族に会うために日本に帰るという選択を取ることができた。はたから見れば、ただ日本に帰るという行為だが、自分にとっては多大な勇気が必要な大いなる挑戦であった。
そして現在、実家から職場に通っている自分がいる。日本に帰ってしばらくが経つが、未だに「帰ってこれて本当に良かった」と壊れたオルゴールのごとく独り言を繰り返している。あれだけ独立心が強く、一人暮らしをしたくてしょうがなかった自分が、家族のサポートなしには生きられないほど弱ってしまった。実家に身をおかしてもらってしばらく経つが、今のところ一人暮らしを再開する気力は湧いてこないし、幸い両親から「出てけ」とも言われない。学生の頃から含めて10年以上ぶりに毎日朝ごはんを食べる生活を送ることができ、家事もほとんどしなくてよくなった。ものすごく助かっている。
日本のアカデミア生活はやはりハードで、恐怖突入する形になってしまったが、かつて自分が森田療法で学んだことが正しかったのか、「日本のアカデミアも大変だけど、命が脅かされるほどではない」と脳が実感したのか、健康的な生活を送れていることも相まって、体調はどんどん良くなりつつある。少なくとも希死念慮は1/10以下に低下し、朝「死」の文字が浮かぶことも、妄想の中で自傷することもほぼなくなった。胸の違和感は未だにあるが、それでも、ハードな研究生活を送っていることを加味しても、アメリカで一人で頑張っていた頃よりは遥かに楽になったと思う。教授や先輩のことをルミネーションすることもほとんどなくなった。かつて「トラウマとの戦いが終わる日は来るのか」という記事を書いた通り、自分はこの苦しみから抜け出せないのだと、心のどこかで諦めていた。だが、予期せぬことに実家で両親と同居することで、不安が和らいだのか、一旦はトラウマとの戦いを終わらせることができたようだ。本当に良かった。
日本に帰ってからの心理的な変化や気づいたこと、アメリカ生活の名残惜しさと大変さ、などはまたブログで書いていくと思う。
とりあえずはそんなとこ。改めて、ただいま。