もし次にアメリカに行くとしたら…

日本に帰ってきてから、うつ病の急性期に、それとは気づかないままアメリカに留学したことを、少し後悔することがあった。帰国後、徐々によくなっていく体調を感じて、博士をとった後に一度親元に帰ってから、体調がよくなってから渡米できていれば、希死念慮に苛まれることなく、もっとアメリカ生活を謳歌できていたのではないかと。

もちろん、そんなにシンプルではないこともわかっている。今現在、家族と良好な関係を築けているのは、自分がカウンセリングに通う過程で、パーソナリティーを変容させたり、妹が独立して家族を築いたり、いろいろな要素が絡み合っているからで、渡米前は実家に自分の居場所はなく、療養回復する余裕はなかったように思う。

また、研究者というのは次の研究室に移るためには、多くの場合何かしらの業績が必要だったりする。日本の新たな研究室で論文を出さない限り、海外学進などのグラントを取りづらくなるので、次にアメリカに行くのは難しく(今は状況が変わり、ポスドクとしてだったら、場所を選ばなければ、どうとでもなるかなと思う)、うつ病急性期だったズタボロの自分が、モチベーションを維持したまま日本で研究を続けることができたかに関しては、かなり疑問が残る。

またNIHにVisiting Fellow(一般的なポスドク枠)で採用されようと思うと、博士を取得してから5年以内でないといけない。つまり博士を取得後、そんなにうかうかしていられないのである。うつ病急性期で感覚が麻痺した頭ではあったが、直感的に自分は「これが留学する最初で最後のチャンス」と感じていたと思う。学生時代の業績でとっとと留学してしまうのがベストであると。

全く意図するところではなかったが、自分にとって留学そのものが療養期間になった。同じく日本のアカデミアで傷ついた友人と「アメリカ療養だね」と語り合っていた。ストレスフリーな楽園的な環境で素晴らしい仲間と働くことができ、かけがえのない友人もたくさんでき、尚且つ論文も出すことができた。カウンセリングに通い、過去を整理し、自分のパーソナリティーの形成過程を振り返り、自分の不便な部分を変容させることができた。

それと、Mちゃんや元教授といったつらい関係性と最終的に離れられたのも、アメリカという物理的に距離がものすごく離れたことが、もしかすると大きい要因だったかもしれない。あんだけ苦しい関係性なら、日本に残ったとしてもいずれ終わっていたような気もするが、「終わり方」「縁の切れ方」は違っていただろう。家族との関係も、一度長期間離れ離れになることで、見つめ直すことができ、良くなったようにも思う。

それでも、「留学生活がうまくいった」のは、結果論でもある。というのも、たまたま自分に海外生活があっていたり、たまたまいい研究室を選べたりできたというのは、自分の資質であったり、運の要素も多分に絡んでくるから。留学生活がうまくいかなかったり、アメリカ生活が合わなかったり、アメリカで不幸な事故を経験したり、そういう人達にも留学中に出会ってきた。

実は、自分が留学したのは、もちろん自分の選択であることには違いないのだが、元教授や母の「期待」に応えなくてはならなかった側面も大いにあるのだ。

学生時代、自己愛性パーソナリティ障害の教授と自分は完全な洗脳的な主従関係にあり、教授の要望に応えることは絶対であった。そんな教授に常々「成功するなら留学だ」とか「留学してコネを作ってこい」とか言われ、自分には留学以外の選択肢が残されていなかった。

またうつ病急性期による、あまりのエネルギーの枯渇から「留学やめとこうかなぁ」と母に弱音を言ってみると、すごく不機嫌そうに、悲しそうに「頑張れよ〜」と言われ、うつ病で弱りきった自分を受け入れてくれる場所は実家にないんだと悟った。

自分はそんな教授のために、研究室のために、母のため、ほとんど残されていなかったエネルギーを振り絞り、留学を決めた。

両親は留学の決定を喜んでくれたが、悲しいことに、元教授は自分の留学が決まった途端、自分への態度が冷淡なものへと変わった。散々留学を勧めておきながら、いざ自分の留学が決まると、元教授の運営する研究室よりブランド力のあるアメリカの研究室に移られるのが気に食わなかったらしく(NIHのビッグラボだから当たり前なのだが)、露骨に憎悪を態度に表してきた。もしかすると、自分が本当に留学をするはずがないと、心のどこかで低く見積もられていたのかもしれない。

自分は悲しかった。教授に喜んでもらおうと思って、頑張って留学を決めたのに、自分を含め周囲の人もやったこともない、模倣例がない海外生活に挑まなくてはならなくなったのに、自分の留学は喜ばれるどころかむしろ疎ましく、憎いものに思われた。進撃の巨人で、ライナーが母のため、父のために、巨人を継承する選考を死に物狂いで受かったのに、それを喜んでくれる父は元々いなくて、パラディ島でいきなり巨人に食べられそうになって…そういう姿と自分が重なった(進撃の巨人のこのエピソードが発表されたのは留学後だったのはご愛嬌)。

自分にとってアメリカは楽園で、留学生活を自分の財産に変えることができたけど、場合によっては留学先がパラディ島みたいなところで(楽園とややこしいが…)、自分の人生を台無しにしてしまっていたかもしれなかった。

留学までの人生はすべてステップアップしていた。進学校に入学し、大学進学し、博士課程に進み、アメリカに留学する。だが、それはどこか周囲の大人の期待に応える側面が大きくて、純粋に自分自身が望んだこと、自分自身の選択によるものだったかは、断言するのが難しい。アメリカから日本に帰国するのは、見方によればステップダウンなのだが、自分の人生で初めて周囲の期待に背いて、自分自身で望んで選択できた、自分にとって非常に価値のあるステップダウンであった。

もし次アメリカに行くとしたら…今度は元教授や母の期待に応えるためではなく、ピュアに自分自身の選択によるものだ。海外生活は非常にエネルギーのいるもので、今の自分にできるとは思えないが、数年後、もしかするとエネルギーが舞い戻って、また留学する活力が湧いてくるかもしれない。

アメリカ生活は、本当に心が洗浄されるような、楽園のようなもので、またいつか大自然の中のロッジで心が浄化されるような休息を取りたいなと思う。日本もいいけど、このまま定年までずっと日本暮らしなのも、少し残念な気がする。

でも、今の日本生活も、自分が帰国の恐怖と戦って勝ち得た貴重なものなのである。ゆっくりでいいから、今の生活を、今以上に有意義な、アメリカ生活のように「財産」と呼べるものにしたいと思っている。

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