「しない」「できない」の区別は難しい。。。

自分が住んでいるメリーランド州は数年ぶりの冬到来という感じで、久しぶりに雪が降り続いてる。昨年は記録的暖冬で、雪の気配もなかった。今年は寒すぎるというわけではないけど、「普通に寒い」と感じる日がずっと続く感じで、久々に1週間以上、雪が降り続く。もしかしたら自分が来てからの3年間で一番降っているかもしれない。

あの人は「しない」のではなく「できない」のでは?

ここ数年「しない」「できない」の区別というのが実は難しいというか、その線引きって曖昧だな、と思うようになった。

それは、自分がうつ病を患い、以前は無意識にできていたようなことが、すごく困難に感じるようになった、ということが主な原因の一つだ。

うつ病になると、「歯磨き」とか「お風呂」とか普段は日常のリズムで何気なくできていたことが、非常に困難となる。でも、友人に「最近、歯磨きができなくて」と相談しても「は?どういう意味?」と中々わかってもらえない。それはそうである。その人の前で自分は、一見普通に生きているわけだから。別に手が切断されたわけでも、寝たきりになったわけでもない。「歯磨きぐらいはできるはずだ」そう思われても仕方がない。

自分も全く歯磨きができないかと言われると、そうではない。週に何回かは、ちゃんと就寝前に歯を磨くことができる。でも、毎日はできない。強調しておかなければいけないのは、「うつ病発症前は毎日できていた」ということである。ズボラな芸能人の私生活をテレビで見ていると、そもそも歯磨きを全くしない、みたいな人もいるそうだが、自分はもともとやっていた人なのだ。

「最近、歯磨きできなくて」と人に相談しても「え、でも全然やらない人もいるし、大したことじゃないんじゃない?」と問題の大きさをディスカウントされがちなのだが、こういう時に大切なのは、他人と比べることでなく、過去の自分と比べることなのだ。世の中には色々な人がいて、もともと歯磨きしなくても、全く気にならないという人もいる。そうではなく、もともとしていた人ができなくなっているというのが問題なのだ。

歯磨きができない日は大抵、夜中の2時から3時まで際限なくYoutubeを見続けてしまい、自分のエネルギーが尽きると、そのまま布団にバタンしてしまう感じだ。毎回「ああ、今日も歯磨きできなかった」と後悔しながら。

起床してからエネルギーが補給されている状態だと、歯磨きができるので、大抵は翌朝磨くことができる。が、理想的にはしっかり夜中に歯磨きを完了して、気持ちよく眠りにつきたい。

例えば「歯磨きしないと殺すぞ」みたいに脅されると、流石に歯磨きできる。でも、そういう強いエネルギーが外部からかからない限り、自然には歯磨きができない。できるけど、できない。決して、しないわけではない。

この感覚はうつ病を経験したことがない人には伝えるのが難しい。例えるなら、水面台までちょっとした山がある感じなのだ。夜中のエネルギーが尽きた時に、その山を超えてまで歯磨きしに行くというのが、まあめんどくさくて、せずにそのまま寝てしまう。でも翌朝にはその山は消えていて、別に特に意識しなくても歯磨きができる。

「うつ病はリズムが狂う病気」というのをTwitter上で誰かが言っていた。そのことに自分はえらく共感を覚えた。今まで、何気なく無意識にできていたことが、エネルギーをたくさん使わなければできなくなる。

おそらく、脳の中に「リズム」を司る部分があって、そういう機能がうつ病では大幅に低下するのだと思う。自律神経が狂うというのも、いい表現かもしれない。

うつ病を経験したことのない人は「うつ病ってテンション低い時の延長線上でしょ?」というような印象があるかもしれないが、経験してみると、それとはずいぶん違うことに気付かされる。うつ病は、今まで、できていたことができなくなったり、感情の波(リズム)が狂ったり、新しいことに挑戦するのが異様に恐ろしくなったり、負けん気が出なくなったり、表情がおかしくなったり、そんな感じだ。明らかに脳のどこかに、障害が発生している。

うつ病の最果ては「セルフネグレクト」だと思う。生活的自立を司る脳の機能が完全に破綻してしまい、歯磨きはおろか、排泄の処理まで自力ではままならくなってしまう。

セルフネグレクトに関しては、こちらの特殊清掃を描いた漫画でよく学べる。恐ろしいが、でも、現代日本みたいに超絶ストレス社会で弱者や敗者が切り捨てられる社会だと、誰しもセルフネグレクトに陥ってしまう可能性はあるのではないかと思う。

引きこもりだった友人のこと

自分には引きこもりだった女性の友人がいる。彼女が自身の病状について全てを教えてくれたわけではないが、おそらくうつ病や境界性パーソナリティー障害だった。彼女と自分とは友達以上恋人未満的な、それでいてプラトニックな、不思議な関係が10年以上、今も続いている。幸い、昨年から働けるようになり、今も彼女のうつ病や境界性パーソナリティー障害が完全に癒えたわけではないが、それでも前よりはずいぶん良くなっていると思う。

自分は彼女に元気になって欲しかったし、「自分が助けなくては」みたいな使命感も存在していた。その使命感は、自分がうつ病を発症してしまったことや、その寛解途中で色々学ぶ過程で、だんだん間違っていたものだと気付いていった。

この本は、彼女の現状を理解しようと必死にもがいていた時にたまたま見つけた本だ。作者はソーシャルワーカーで、引きこもり問題に長年取り組んでいる。自分はこんなにも弱者に寄り添える人間を見たことがない。それくらい、自分にとってすごく印象的な本だった。

この本を読んで「主体性」ということについて非常に考えさせられた。というのも、「そこまでしてあげないと何もできないの?」と思う箇所もあり、アドラー心理学的に言うと課題の分離ができてない気もした。ただ当人の主体性だけに頼っていては、うまくいかない場合も多々あるというのが、社会性動物の人間なのだろう。生育家庭の適切な時期に「主体性」を習得できないと大人になってから二進も三進も行かなくなってしまう。本人が求めてなくても周囲が救いの手を差し伸べることも否定できないことなのだと思う。

「主体性」などの脳の機能も使わなければ、退化してしまうらしい。それは、自分がうつ病を発症してから、アンヘドニアを患って同様のことを感じた。自分の脳を過信せず、衰えないように適宜使っていかなくてはならない。

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