自分がカウンセラーさんに教わった言葉でとても便利な言葉があるので、それを紹介しようと思う。
それは「ディスカウント(割り引き)」である。日本では一般的に物の値引きについて使用される単語だが、カウンセリングでは「苦しみやつらさ」に関しても使用される。
どういうことかというと、自分が感じる「つらい」という感情を「大したことない」と実際のサイズよりも少なく見積もるということである。
このディスカウントには「もっと苦しんでいる人もいる。自分の苦しみなんて大したことない」と自分で自分の苦しみをディスカウントする場合もあれば、「みんな苦しいんだよ。つらいのはあなただけじゃないんだよ」と他人からディスカウントされる場合もある。
なぜ、こういう風に名前がつけれれているかというと、このディスカウントという現象が非常に「あるある」だからである。実際、Twitterでうつ病闘病中の人をいろいろフォーローしていると、たくさんの人が「他人からのディスカウント」に心を苦しめられていることがわかる。
しかし「ディスカウント」という用語はまだあまり浸透しておらず、ググってもなかなかヒットしない。だが、現象に名前をつけるということは、それについて客観的に捉えるということであり、気持ちの上でも非常に楽になるし、ディスカウントに対する対処法も見つけやすい。
実際、自分自身「ディスカウント」という言葉を覚えてから非常に楽になった。自分の場合はよく母親から苦しみのディスカウントをされていた。いくら前の職場のつらさを伝えても「社会なんてそんなもんだよ」とディスカウントされ、自分の苦悩を認めてもらえないのだ。
「大切な人間から共感が得られない」というのは実際ものすごくつらい。でも、ディスカウントという単語を覚えてからは「今、自分はディスカウントされている」と状況を一言で整理することができ、気持ちの面では大いに楽になった(つらさそのものが弱まる訳ではないけれど)。
ディスカウントという言葉、現象を学習してからは自分は母親に相談するのをやめた。「もう言っても無駄だ」と思ったのだ。それは自分の母親離れの始まりでもあり、またもう一つ大切なことに気づくきっかけでもあった。
それは、自分自身が母親と精神的に一心同体でいたいという希望を捨てられなかったということだ。ディスカウントされるのがわかっていても、何度も母親に同じ内容を相談していたのは、母親というかけがえのない存在に「自分の苦しさを理解してほしい=自分と同じ考えでいて欲しい」という願望が、気づかぬうちに強く自分の中に存在していたのだ。でも、母親と自分は家族ではあるが同じ人間ではなく、思想的にも必ずしも両者一致する訳ではないのだ。
「精神的な意味での親離れ」というのは親子であっても別々の人間であることを認め、互いの意見の相違を認め合い、そして同調を強制しないということだ。自分は知らず知らずの間に母親に同調を強制し続けていたのだ。そして、30歳を過ぎてようやくそのことを諦められるようになりつつあるのだ。
今回のブログでは自分なりに考えた「ディスカウントの問題点」をまとめてみようと思う。
ディスカウントの問題点
他者からディスカウントされるとつらい
これは他者からディスカウントされる場合だが、せっかくつらいことを勇気を持って相談したのに「でも、それって普通のことだよね?」と言われると、ものすごくつらいのだ。一生懸命自分の苦しみを伝えても、共感が全く得られないというのは、ものすごくつらいのだ。
でも、これはしょうがない部分もある。人間というのは想像力が非常に豊かな、あるいは共感性が異様に高くない限りは「体験したことがあること以外は共感できない」生き物なのだ。自分も、もし自分でうつ病を患っていなかったら、おそらく他人から苦しみを相談されてもディスカウントしていただろうと思う。
もし、ある人が、体験したことがないことを相談されても、深い共感性を示すことができるのなら、その人は「非常に想像力が豊かな人物」なのだ。多分、小説家になれるくらい、優れた想像力の持ち主だ。逆にディスカウントする人というのは「凡人、普通の人」なのだ。苦しみを相談してディスカウントされた場合、つらくてその人を恨みがちだけど、あまりおすすめはしない。なぜなら、その人は「悪い人」ではなく「普通の人」だから。そして世の中の大半の人間は「普通の人」であり、「普通の人」を嫌う習慣をつけてしまうと「世の中の大半の人間が嫌いな人間」になってしまう。そんなのは生き地獄だ。
ディスカウントする人は対処法を知らない
例えば、職場や学校で指を紙で切ったりして、軽く出血したとしよう。そんな場面では何人かが、我先にと絆創膏を持ってきて「これ使って」と差し出す光景が思い浮かぶ。
実際、それくらいの出血だと、本当に大したことがなく、ほっとけば治るが、それでも救いの手を差し伸べてくれる人は複数人いるだろうと想像できる。
これは「切り傷、出血」に対する対処法を知っているからだ。自分もそうだが、頼りにされたい人間というのは結構いて、他者の助けになれることは嬉しいものである。誰かが困っていて、自分が確実になおかつ簡単に助けられると思ったら、自然と救いの手を差し伸べてしまうものだ。
逆に「そんなの大したことないよ、みんなが経験していることだよ」とディスカウントされる場合、その人は対処法を知らない。
もしかすると、相談されているのはわかっているけど「頼りにならない奴」と思われるのが嫌で、問題そのものを「無いもの」にしようとしているのかもしれない。
実際、つらさや苦しみに対する現実的な対処法というのは知らない人がほとんどだ。心療内科や、カウンセリングに行ったことのある人や、認知行動療法を自分でやったことがある人はかなりの少数派だと思う。自分も今でこそ、これらを一通り経験しているから、もし他人から苦しみの相談を受けても、そういう対処法を提示することができるけど、そうじゃなかったら、自分も凡人なので、おそらくディスカウントしていたと思うのだ。
だから、もし他人に相談してディスカウントされる場合は「あ、この人は対処法知らないな」と心の中だけで思い、その会話を終わらせよう。多分、それ以上相談しても双方の利益にならない。
ディスカウントは問題を先送りにしているだけ
個人的にディスカウントの最大の問題は、問題を無かったことにし、解決を先送りにすることで、「重症化」しがちだということだ。体の傷や痛みも「大したことない」の放置し続けると、化膿したり、疲労骨折したりと重症化する場合がある。
体の様に「外面」に現れる傷には対処しやすいし、病院も何科に行けばいいかわかるから、比較的早めに対処できるが、心の様に「内面」の傷というのは対処の仕方がわかりづらく、「大したことない」とディスカウントされ、放置され、重症化しやすい。
実際に病院に行って「大した問題」ではなければ、「よかったよかった」で済む話なのだ。体の傷のように、心の傷もディスカウントせず、早め早めの対処が大切だ。一度うつ病を発症する段階まで来てしまうと、直すのは至難の業である、ということは自分が身をもって実感している。
苦しみをディスカウントせず、等身大の苦悩を見つめよう。そのことがあなたの身を助ける。
ディスカウントはクリエイティブでない
「心の傷、つらさ、苦しみ」に限らず、ディスカウントされやすい問題というのは「対処法が分かりにくい」ということがほとんどである。「ディスカウントされやすい問題=難易度の高いゲーム or 無理ゲー」と考えてもらって大丈夫だと思う。
例えば、首都の満員電車問題など、みんな苦痛を感じているはずだが、「じゃあ、どうすれば解決できるか?」と問われても、わからないし、かなり難しい問題だからこそ、長きに渡って存在し続けているのだ。おそらく、満員電車の問題も「つらいのは自分だけじゃない」とディスカウントによる、その場しのぎの対処法が何十年もされ続けているのだろう。
ただ、「つらいのは自分だけじゃない」とディスカウントし続けるだけでは、問題というのは一向に解決しない。ディスカウントは言わば「我慢」を強いることであり、解決案を模索するような「クリエイティブな要素」が一切欠けているのだ。
でも、本来なら「つらいのは自分だけじゃない」問題「みんなが困っている」問題こそ、解決した時に非常に価値があるものとなるのだ。苦しんでいる人が多ければ多いほど、その問題が解決した時に助かる人も多い。
ディスカウントされやすい問題は無理ゲーであることが多いが、でもそういう問題こそ諦めずに解決方法を創造し続けることが必要だと思うのだ。
ネットや本で見つけたディスカウントの記事
最後に本やネットで見つけたディスカウントの説明を紹介しておこう。
阿部ゆかりさんという方が書かれた「マンガでわかる こころを癒すセラピー」という本では「ディスカウント」のことを「ビッキー」と表現されている。この「ビッキー」に関しては、自分がカウンセラーさんから教わった「ディスカウント」と同じ意味で用いられている。
また、次の表現の中でディスカウントという用語が用いられている。
過酷な環境で生き延びるためには、つらさや苦しさ、悲しさをディスカウントすることは大いに役立ちます。
マンガでわかる こころを癒すセラピー
作者は逃れられない過酷な環境を一時的に凌ぐためのディスカウントの有用性は認めつつも、最終的には現実をありのままに認識することが役立つと言っています。
ちょっと内容は違うかもしれないけど、ネット記事も少々。若干違うニュアンスで用いられているような気もします。