前回の記事で、論文投稿時に再現性が気になるために感じる恐怖心について、イントロとして紹介したが、今回は実際にどうやってその恐怖心に立ち向ったかを紹介する。
自分は過去にうつ病を患い、現在も寛解途中なのであるが、その過程で「認知行動療法」という非常に優れた方法に出会った。この方法はうつ病の人に限らず、社会生活において生きづらさを感じている人にも非常に役立つ方法である。
簡単に説明すると、自分がどのようにネガティブな感情(つらさ)を感じるかということを、包み隠さず、言語化、できれば文章化し、そこに表れる認知の歪みを見極めて、それを合理的な思考に切り替える、という作業を繰り返すことである。そして、最終的に行動の変化に繋げようという試みである。1人でもできるが、できればカウンセラーさんなどと一緒にやる方がいいと思う。
認知行動療法には、いろいろなワークシートがあるが、自分はデビッド・D.バーンズの「いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法」で使われている、ダブルカラム法やトリプルカラム法が一番気に入っている。この本は30年以上も前に書かれているが、人間の悩みというものが今も昔も全く変わっていないという事実に気付かされるし、本当にうつ病治療のための「最強の本」だと思っている。長くて難しいが、ぜひ手にとってもらいたい。
10種類の認知の歪みについては書くと長くなるので、リンクを貼っておく。
個人的に、一番難しいと感じられるのが、自然に湧いてくる考えである「自動思考」を恥ずかしがらずに、そのまま無編集で書くことである。「恥ずかしがらず」というのは無理だが、「恥ずかしいけど、勇気を持って思い切って書く」ということだ。自動思考というのは、時に醜く嫌な感情であることもあるが、それでもそういう「醜い感情」を抱く自分を認めて、思い切って顕にするのだ。これができて、初めて認知行動療法がスタートする。逆に、なかなかこれができない場合は、この治療法が効果を持たないと思う。
トリプルカラム法の実践
(1) まず状況を整理する。
状況「論文を筆頭著者として出した。自分が見て来たものが全て夢で、自分が投稿した実験結果が全て再現できなかったらどうしようと、いう不安。」
理想「別のグループと同じ内容の論文を共同で出す」
(2) 思考、感情、行動、身体の変化をまとめる。これが、自分がカウンセラーさんに教わった、一般的な認知行動療法のワークなのだと思う。
思考「以下にトリプルカラムとして記録したので省略」
感情「このことを考えた時に、漠然とした不安、抑うつが生じる。感情的に気持ちの良いものではない。」
行動「行動面には特に変化がないと思う。不安になるからといって、強迫的になって実験したり確認するわけではない。」
身体「身体面においても特に大きな変化はないと思う。強いていうなら、集中力の低下とか気疲れとか?でも週末になったり、家に帰ったりすると忘れてしまう。」
(3) 思考をトリプルカラム法を使って掘り下げていく
第1段階
自動思考1. もし自分がしてきた実験結果が、全て幻想で、他の研究室から再現が取れないと言われたらどうしよう。
認知の歪み1. 心のフィルター。マイナス化思考。結論の飛躍。拡大解釈と過小評価。(結果が正しかった場合をほとんど無視している。正しく実験を行なった場合、正解である可能性の方が圧倒的に高いにもかかわらず)
合理的な反応1. (A)確かに、実験を行ったのは自分だけだが、3回以上再現をとって、定量も行ったではないか。そして、データも包み隠さずボスに報告して、その上で論文を出したのだ。自信を持つしかない。
(B)もし仮に、自分の見てきたものが全て幻想だとしたら、それはおそらく病気でしかなく、自分の力でどうこうできる問題でない。考えても効果がない心配をしている。「役に立たない心配」であることを理解する。
第2段階
自動思考2. もし再現取れないデータを出してしまうと、真実ではない結果を公表してしまうと、ボスの顔に泥を塗ることになる。
認知の歪み2. 個人化。心のフィルター。マイナス化思考。結論の飛躍。拡大解釈と過小評価
合理的な反応2. 今までの研究史において、数かぎりないほどの「再現の取れない研究」が論文として出されている。自分の主観だが、「間違いを一回も犯していないPI」の方が少ないと思う。一回の失敗でボスの研究者としての経歴を台無しにしてしまうわけではない。そしてボスの言う通り、もし間違っていたら、「間違っていましたすみません」と論文を撤回したり、誤りを認めたりすればいいだけの話である。その覚悟は自分にはあるではないか。ボスも撤回は悪いことではないと言っているし、自分もそう思う。
もう一つ、この研究の責任は自分だけにあるのではない。現に責任著者はボスなのである。もし自分がボスになった場合で、研究の再現が取れないと、外部から言われた場合、そのポスドクや学生だけに責任を押し付けるであろうか?その人を雇ったのはボスであり、その人物の健康に配慮する責任がボスには課される。そして、実際に自分は人生の大部分の時間を割いて、自分のため、ラボのために実験をし、データを記録しているのである。もし自分がそんなに一生懸命働いている部下が、仮に再現の取れない仕事を公表したとしても、一定の感謝を表すであろうし、決して非難するだけで終わることはないであろう。
そして一番大切なことだが、研究する以上、何か新しいことを報告しなければならないのである。過去の研究の再現ばかり取っていれば、確かに「再現取れない!」と非難されることもないが、それならば研究する意味もないのである。失敗するかもしれないが、自分のヴァルネラビリティーに果敢に挑戦し、ステージに立ち続けるのである。それが研究者であり、研究活動である。
第3段階
自動思考3. そしたら自分は「信用のない研究をする人間」として見なされ、ラボのみんなから嫌われる、無視される、相手にしてもらえなくなる。
認知の歪み3. レッテル貼り。強い見捨てられ不安。誠実な人間でいなくてはならないと言う強迫的なまでの思い。
合理的な反応3. 確かにそう言う理由で、他人を軽蔑する人間はいるが、今のラボメンバーはそんな人ではないではないか。現に自分は自分の研究以外にも、人の意見を聞いたり、共通のテーマを手伝ったり、しているし、最近は自分のことを頼りにしてくれていることも実感している。そして、一昨年、自分の研究が再現取れないと他から言われた時も、誰も自分のことを見捨てなかったではないか。そして、自分も友達の研究が再現取れないからといって、そんな理由で見捨てたりしないではないか。
仮にラボメンバー全員から見捨てられ、ボスから迫害され、ラボを追放されたとしても、やり直しがきくなら研究をまた別の場所で始めればいいし、仮に研究業界からも追放されたとしても、また何か自分がワクワクする新しいものを見つけて始めれば、すごく幸せでないか。研究業界を追放されたことをネタにして、記事にしたり漫画を描いたりしてもいい。人生は死ぬまで終わらないのである。
第4段階
自動思考4. そしたら人生終わりである。
認知の歪み4. 結論の飛躍。一般化のしすぎ。感情的決めつけ。全か無かの思考
合理的な反応4. それでも人生は続く。研究だけが自分を構成してきたわけではないから、研究が終わったとしても、自分の一部分が失われるだけであり、全てが失われるわけではない。そして研究活動においても、少なくともいくつかは再現のしっかり取れるものや、質の良いものを残してきているし、出版という形以外でも、例えばラボのメンテナンスや、新しい技術の導入という形で貢献してきた。「夜と霧」でも言われていたが、「過去は誰からも奪われないのである」。自分の友達で研究以外でつながっている人もいるし、そういう人との繋がりは仮に研究がダメになったとしても、失われるはずないではないか。仮に友も家族も仕事も全て失ったとしても、また新たに作れば良いのである。研究で失敗したとしても、その可能性までが失われるわけではない。「夜と霧」でも言われていたが、良くも悪くも未来は誰にもわからない。
(4) トリプルカラム法のまとめ
個人化、自己関連づけ、他人の判断に委ねられる部分を自分で「こうだ」と決めつけてしまっている。自分が失敗を犯した時、それに対する相手の反応は「相手に委ねられている!」はずなのに、自分で勝手に想像して恐怖シミュレーションしてしまっている。同じことを相手にしたり、言ったりした場合、その反応は相手によって違うから、自分の言動に対する結果の50%くらいは相手に委ねられているはずである。にもかかわらず自分は相手の反応に対して、100%の責任を感じる傾向があると思う。
「いやな気分よさようなら」という認知行動療法の本を先月読み終えたのだが、その中の傾向テストに、“全能感「27. 人のやり方を批判した時、その人が怒るか塞ぎ込むかしたら、それは私がその人を動揺させたからだ。」強く感じる、感じる、どちらでもない、感じない、全く感じない、の五段階評価”があり「感じないと答える人が世の中にいるのか?」と衝撃を受けた。それくらい、自分の言動に対する相手への影響を、ほとんど自分のせいだと感じている自分に気づいたのである。
良い部分が全く頭に入ってこない。「研究が評価された場合、再現された場合」のことが全く想定されておらず、それに伴う、ウキウキ感とかワクワク感もほとんどない。
非難されることを異常に恐れている?恥の感情が強い?
そして一番大切なことだが、研究する以上、何か新しいことを報告しなければならないのである。過去の研究の再現ばかり取っていれば、確かに「再現取れない!」と非難されることもないが、それならば研究する意味もないのである。失敗するかもしれないが、自分のヴァルネラビリティーに果敢に挑戦し、ステージに立ち続けるのである。それが研究者であり、研究活動である。
最後に
この作業を昨年にトライしてみた。改めて見返してみると、当時真剣に苦しんでいたんだなということが分かるし、逆に今はだいぶ冷静になれているということがわかる。改めて、自分の思考を記述して残すことの大切さがわかる。
自分のパーソナリティーの傾向として「強迫性」が強いのだが、この方法は「強迫性障害」の治療にもよく用いられている。思考をどんどん掘り下げて、全て、行き着くところまで思考を改変していくのだ。
そして、最後は行動に繋げなくてはならない。自分の場合、いくらこの作業をしても、最後に論文投稿しないのでは意味がない。
強迫性障害関連の本を読んでみても、脳を変えるには行動しかないようだ。行動を変えてみて、初めて脳が奥深くから安心し、自動思考の面でも変化するのである。