最近はここ数年で最もナーバスだ。いよいよNIHでの任期が終わりつつあり、恐れている日本での職探しをしなくてはならない。ウキウキした未来が見えない、冴えない日が続きそうだ。
最近は、頻度こそ減ってきたが、自分は新しい研究者の知り合いができると、すぐにPubmedでその人がどれだけ論文を出したか調べてしまう。自分以外にもそういう人にあったことがあるので、どれだけ一般化できるかはわからないけれど、研究者病と言えるかもしれない。
正直なところ、そうやって人の業績を調べて、自分より年上で自分より業績が出てない人を見て安心したり、自分より年下で業績がたくさんある人を見て落ち込んだり、そういうことそのものがアホらしくなってきてるというか。
アホらしいのはもともとわかっているのだけれど、なんというかもう疲れて、人と張り合う元気もないのだ。自分はそういうふうに、狭い小屋に入れられて、競争するのが苦手だ。
そもそも、そうやって、人と上下関係を比べてしまう、自分の精神性が醜く感じられる。いったいいつからこんな自分になってしまったのだろうと。
なんというか、そういう競争から逸脱した世界に逃れたい、醜い自分から解放されてキレイな自分でいたい。そうずっと思ってきたけど、でもそれも幻想で、ユートピアで、そんな世界は存在しないのかもしれないし、そんなのは自分じゃないのかもしれない。
最近の自分の中でのカウンセリングのテーマは「理想と現実」あるいは「自分の分を見極めること」だ。
どんな理想を掲げて、そういう自分になろうとしても、それは不可能なんじゃなかろうか?
ある人は簡単にそれを成し遂げて、どんどん成し遂げ続けるけど、自分は永遠に最初の一歩すら到達できない。そういうことが往々にしてあるなと。自分では自覚がないが、その逆に自分がどんどん成し遂げている事象もあるのかもしれない。
空は飛べないかもしれないけど、空を飛ぶことを諦めることはできるし、空を飛ぼうと試行錯誤した記録をブログとして昇華することもできる。
今まで空を飛ぶ努力に費やした時間を、絵を描くことに費やしたり、ハイキングすることに費やしたりすることもできる。
きっと「空を飛べない自分」以外の「絵を描ける自分」とか「山登りが好きな自分」とか多分いろいろな自分がもっともっと自分の中に埋もれているような気もする。
だから、無理して自分の理想を追求したり、あるいは醜い自分を自分の中から抹殺する必要もないんじゃないかとも思う。
「自分より年上で結婚していない人を見て安心する自分」を消去するのに時間を割くのでなく、「自分より年上で結婚していない人を見て安心する自分」はそのままほうっておいて、それ以上に「絵を描ける自分」とか「ブログを書ける自分」を追加することに時間を使う。そうすれば必然的に、醜い自分を消去する時間が減る。
多分、そっちの方が楽しそうだし、何より「現実的」な気がするのだ。多分それならできる。
お前は聖人君子なんかではない。ちょっとしたことで嫉妬もすれば、人の陰口だって叩くし、ちょっとしたことですぐに人も恨む。今まで、そんな自分を自分の中から消去しようとしてきたけど、それはデフォルト設定されているアプリケーションで、それを無理矢理消去すると、パソコン自体が機能しなくなる。
「怒り、嫉妬、恨み」そういう感情が自分に備わっているということは、そいう感情が生命の中に保存されているということは、そういう感情もきっと必要な感情なんだ。醜い、消去すべき感情なんかじゃないんだ。
でも、もう少し上手く、そういうネガティブな感情の処理がうまくなればなあと思う。それが今後のカウンセリングのテーマかな。