ルミネーション(反芻思考)の原因は不安・恐怖心だったのか?

アメリカから実家に戻ってきてすぐに、希死念慮と共に、過剰なルミネーションも消えた。

ルミネーションは英語であり、スペルは”rumination”。日本語では「反芻」にあたり、「牛が食べ物を反芻する」という使い方が一般的であろう。英語にはそれに加えて、「何かを熟考する」という意味がある。

自分は学生時代でのブラック研究室での経験がトラウマとなり、身体症状を伴うPTSDを経験するようになってしまった。また、以前の研究室にまつわる事柄に対面すると、当時の記憶や、嫌な人たちとの対話を繰り返し、ルミネーションするようになってしまった。

(過去のルミネーションにまつわる記事)

スプラトゥーン3とルミネーション(思考反芻)

トラウマとの戦いが終わる日は来るのか

そこそこ元気にやってます。野菜ファースト

ただいま

希死念慮の原因は孤独感だったのか?

ルミネーションは日本への帰国を画策し始めた、帰国1~2年前から激しくなり、特に帰国半年ほど前のルミネーションは、家で一人でいるときなど、他の物事に手がつかなくなるほどハードだった。

ルミネーションの内容というのは言語化するのが意外と難しい。全ては一人でいる時に、自分の頭の中だけで行われ、断片的で断続的で、なおかつ「自動思考」だからだ。自分で意図的に考えるものではなく、勝手に頭に湧いてくる考えで、逆に意図的にルミネーションを再現しろと言われても、意外とできなかったりする。

ただ、断片的であるが、自分の場合は「起こってほしくないこと」を想像して、恐怖対象と自分の対応をシミュレーションすることが多かった。

例えば、元教授と先輩が、NIHの自分の職場を訪れ、自分の悪口をラボメンバーに吹聴したりとか、自分を研究室に連れ戻すために、NIH時代のボスを説得したりとか、そういう場面をよく想像し、それに対して自分はどう対応するか?そういったことをシミュレーションしていた。もちろん、元教授や先輩が、日本からはるばる、アメリカの所属ラボを訪れ、英語でこれらの行いをするというのは考えづらいが、それが理性ではわかっているものの、扁桃体が乗っ取られ(アミグダラハイジャック)、それが本当に起こってしまいそうに感じるのが、ルミネーションの厄介なところなのである。

日本に帰るまでまだ時間があり、就活のことを考えずに済んだ、アメリカ生活を謳歌できた留学中盤は、Mちゃんとの結婚生活の不自由さがルミネーションの内容だった。あまりに社会的なルールを守るのが苦手なMちゃんにとって、例えば、正月に自分の両親に挨拶に来るとか、そういうことはいくら説得しても不可能に思われ、逆に社会的ルールを徹底的に強迫的に守る自分の母とは絶対に折り合いがつかないとか、自分はどうすればいいのだろうとか、そういうだいぶ先の未来を不安に感じていた。

おそらく、人がルミネーションする理由は、「危険予知」にあるのだ。何かしらの恐怖対象、あるいは不安対象があり、それによって引き起こされそうな、自分が遭遇したくない未来を事前に予測し、対応可能な状態にし、不測の事態に備える。一見必要そうな行いにも感じられるが、それらは客観的に見て「起こるはずがないこと」だったり、あるいは「もっといい解決策」があるものだったりする。

一人でいる時は、生物学的にも、不安や恐怖を感じやすく、ルミネーションも増幅されやすい。

親と同居し始めてから、当然と言えば当然だが、日常時の不安のレベルが下がった。声の届く範囲に、自分の身を守ってくれる、自分の命を尊重してくれる血縁がいるということは、無意識下の心理状態に与えるポジティブな影響が想像以上に大きい。アメリカで一人暮らしをしていた頃は、ルミネーションが自然に増幅していって、それを一人で終わらせることが困難であったが、今はルミネーションの種が生まれても、家族とのやりとりに気を取られ、ルミネーションが長時間持続せず、すぐにどっかにいってしまう。

理想的なことを言えば、パートナーとの関係性の中で、お互いに助け合い、そういう困難を乗り越えていければよかったのだが、自分にはそういうパートナーができなかった。結果として、両親の庇護下に舞い戻ることになったのだが、でも背に腹は変えられない…自分はこれ以上自分の健康を損なうわけにはいかなかった。両親と、不完全ではあるが、良好な関係を継続し、自宅療養しながら仕事を続けられる現状が本当にラッキーである。

数年前まで、我が家も問題を抱え、母も不安定で、とてもじゃないが、自分が身を置ける環境ではなかったのだが、妹も独立し、家庭を築き、孫もできて、そこから母の気性が安定し、自分を匿う余裕ができた。自分もいずれは再び独立したいが、もう少し気力が回復するまで、何かの自信を取り戻すまでは、「追手・敵」から匿ってもらおうと思う。

以前のブログにも書いたが、自分には「自衛」の意識がなさすぎる。それは、母の「いい子に育てなくてはならない」という強固な禁忌から、自分から一縷の暴力性も排除されてしまったことが原因で、正当防衛すらできない状態にある。

「他者に譲る行為」は善人の典型例であるが、自分が生きるのに必要なエネルギーとか、自分の命まで与えたり、強盗に自らの金品を差し出すような行為をしてしまう場合は、善人を通り越してアホである。強迫的で融通が効かない、「加減」というものが苦手な母に強迫的に「いい子」に育てられてしまった自分は、善人を通り越したアホに仕上がってしまったのである。

それまで、そういう現状に至ってしまったことに関して、言葉には出さないものの少なからず母を恨んでいたのだが、同居し始めて、決して母が悪意を持ってそうしたというのではないこと、純粋に「そうした方がいい」と思って、そう自分を育てたことを実感し始めて、自分も恨みを手放しつつある。きっと母は人生において悪人と身近に接したことのない、あるいはそれに気が付かない、幸運な人生を送ってきたのかもしれない。

どうか世のお母さん方には、息子が戦いごっことか戦隊モノとか、格闘ゲームを好きになってもそれを「悪」だとして息子から取り上げないでほしい。いいとか悪いとかではなく、男が社会の海を泳いでいくためには、適度な攻撃性、少なくとも悪から身を守る程度の技術は必要なのである。彼らがそういうものに興味を持つのは、それが社会を生き残るために必要な要素として、本能的に理解し、遺伝子の中にプログラムされているからだからだ。

そんなわけで、2年前の抱負にも書いたが、今年はフィットネスボクシングを始めたいと思っている。

今年の抱負

太ってきたのもあるが、そうやって、自衛する技術を感覚的に身につけられれば、また一人で生きていく気力も湧いてくるのではないかと信じているのである。



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